top of page
​職業空手家

いつもこのブログには道場の行事、稽古風景、

試合の結果などを掲載していますが、

昨日11月28日(木)私、松井宣治が還暦を迎えた

のを機に少し自分を振り返ってみたいと思い

今回、写真を中心に簡単ですが掲載してみました。

自分が空手を始めたのは1975年11月、極真会館

の第1回全世界空手道選手権大会が開催された1週間後、

15歳の時でした。空手をはじめて、もう45年になります。

最初、柔道をやっていましたが続かず、貧弱で精神的に弱かった

自分を変えたい、柔道の代わりになにか頑張れるものを

やりたいと思い当時の極真会館神奈川県支部に入門しました。

ただ空手をずっとやろうとは考えていなくて高校生の3年間だけ

続けられればいいなと考えていたように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、極真会館神奈川県支部は川崎市武蔵小杉の小学校の体育館

で稽古が行われており、写真は高校2年生の時の審査会の模様です。

審査会が終わり大山倍達総裁に握手をしてもらいました。

 

 

 

 

同じく高校2年生の時の夏合宿に参加した時の写真です。

真ん中の列の右から5番目が自分です。

 

続きます。

職業空手家2

当時の稽古は週3回、1回3時間の稽古で突き蹴りの

本数が以上に多く大変きつかったです。

また、組手は荒っぽく白帯から素手素足で全力でやらされ、

いつも全身あざだらけになり怖くて仕方なかったです。

それでも続いたのは柔道を辞めておいて空手まで辞められない

という思いと、稽古は柔道は毎日で休みなしでしたが空手は週3回

であり今日頑張ったら明日休めるというのも大きかったです。

それでも少しずつ昇級して1年たったくらいから体も慣れてきて稽古

も楽しくなってきました。

極真会館では初段まで取得して大学1年生の時に第10回全日本空手道

選手権大会に出場しましたが、結局3年半で退会してしまいました。

それでも高校生の3年間続けばいいと思っていたのが大学の1年生まで

続けることが出来ました。

退会した理由はいろいろあったのですが現実的には持病の腰痛がひどく

なって運動が出来なくなったのが大きなきっかけになりました。

実際完治するのに半年以上かかりました。

極真会館神奈川県本部で組手の稽古。右が自分、左は一緒に

第10回全日本空手道選手権大会に出場した小林正広先生

(現・葛飾ジュニア空手クラブ代表)。

道場は自分が入門して1年後に常設道場に変わり毎日稽古できる

ようになりました。

 

続きます。

職業空手家3

極真会館神奈川県支部を辞めてから、しばらくは腰の治療に

専念していました。また、腰に負担がかからないようにリハビリ

を兼ねてウエイトトレーニングを行い、痛みが引いてからは

ベンチプレス、スクワット、懸垂等少しづつ負荷を重くしてトレー

ニングしていました。そんなウエイトトレーニングだけの生活を

2年ほど続けていたら68kgだった体重が82kg位まで増えました。

最初はなにも考えていなかったのですが、1年2年とたつうちに

空手をもう一度1からやり直したいという気持ちが強くなり、いくつ

かの道場を検討して最終的に極真会館初代世界大会優勝者、

佐藤勝昭師範が指導される日本空手道佐藤塾(現・王道流空手道

佐藤塾)に入門しました。21歳の春でした。

入門してからは佐藤塾の空手着に白帯を巻いて基本から学び直しました。

稽古は夕方6時半から始まり、まずは基本稽古を行いますが、合間合間

に拳立てふせが50回✕4セットはいって40分位かけて終了。

それから移動稽古ですが一番きつかったのは前蹴上げで移動稽古の終盤

に前蹴上げがはいります。

前蹴上げのやり方は日によって違うのですが、1の号令で1回を1,2,3

回って1,2,3で5~6列、3回連続を5~6列、それが5回連続、7回連続、

9回連続と続きます。最後は50回連続とかもありました。

移動稽古は大体1回の稽古で1時間から時には1時間半位行うのですが、

そのうち20分位は延々と前蹴上げでした。

佐藤塾では移動稽古の最中に酸欠で目の前が真っ白になったことが

何回かありましたが、さすがに極真会館の稽古でもそこまでなったことは

一度もありませんでした。

ただ組手は佐藤師範の方針で先輩は後輩に胸を貸し、後輩は先輩に

伸び伸びと技を出し、同門同志は技を競い合うというかたちでしたので

そこまで荒っぽくなることはなく、極真会館を経験した者としては新鮮でした。

1回の稽古は6時半に始まり、終わるのは大体9時半から10時位だった

と思います。

※昭和の時代の空手であり、今はこういう稽古をやっている道場は自分の

  知る限りありません。選手でやっている方ももっと効率のいい稽古を

 やっていると思います。

ひとつひとつの突き蹴りを何本も何本も繰り返しおこないます

 

 

 

 

佐藤塾では飛び後ろ回し蹴りの稽古もよくやりました

全列左から2人目佐藤師範、後列右から2人目松井

 

​職業空手家4

佐藤塾に入門した時、実は大学を辞めており働きながら

稽古に通っていたのですが、稽古の時間に間に合う仕事

ということで最初は青果市場で働き始めました。

しかし、佐藤塾の想像を絶する猛稽古と朝早い青果市場

の仕事は両立が難しく結局3ヶ月ほどで辞めてしまいました。

それから警備員や清掃などの仕事をしながら空手の稽古

に通っていたのですが空手の稽古との両立がなかなか難しく

アルバイトを転々としていた為、結局稽古も行ったり行かな

かったりと中途半端な日々が続きました。

段々と生活も困窮しはじめアパートの家賃や空手の月謝も

払えなくなりにっちもさっちもいかなくなってきたため、

これはもう就職しなければとアルバイトニュースの正社員募集

を見たり、職安に行ったりといろいろ探したのですがなかなか

見つからず苦労しました。幸いにも書籍の発送の仕事で就職

が決まり正社員になれて、ようやく生活が安定してきました。

23歳の時でした。

仕事に慣れてくると稽古にも定期的に通えるようになり、帯も

緑帯、茶帯と昇級していき大会にも出させていただけるように

なりました。

ちなみに当時は大会は極真会館の大会を除くと正道会館、

士道館しかなく大会に出場できるということは非常に光栄

なことでした。

何回か試合に出て勝ったり負けたりした後、1985年に開催

された士道館杯第5回全日本大会で初めて優勝することが出来ました。

極真会館で空手を始めて以来10年目にして初めて優勝という

栄冠を手にすることができ、いろいろありましたが今まで空手を

続けてきて本当によかったと思える最高の瞬間でした。

それまでは大会に出場することを目標に空手の稽古をして

きましたが、この優勝した大会以降は優勝するために大会に

出場するんだという新たな決意が湧いてきました。

士道館杯第5回全日本空手道選手権大会・無差別級優勝

前列左から2人目が松井。右から2人目は重量級で優勝した

同じ佐藤塾の長谷川一之先輩(現・講士館館長、日本国際空手協会

でともに活動する仲間です)

職業空手家5

私、松井と長谷川一之先輩が士道館杯全日本大会で優勝した

翌年、1986年。

日本空手道佐藤塾が満を持して、第1回POINT&K.O.全日本

空手道選手権大会を代々木第2体育館で開催しました。

これは佐藤勝昭師範の理想とする空手を具現化したもので

往来のダメージ主体のフルコンタクトルールではなくノーガード

で入った技に対してポイントを与えて勝敗を決する新しいルール

による大会で、これにより接近しての押し合いの空手ではなく

距離を取って華麗な技の攻防を目指した空手の大会でした。

さて、士道館の大会で優勝して、この大会も優勝を目指して参加

したものの準々決勝で佐藤塾の森猛先輩と対戦し前蹴りでボディー

を蹴られポイントを取られて負けてしまいました。

ポイントを意識しすぎて硬くなりすぎたのが大きな敗因でした。

その翌年も、第2回POINT&K.O.全日本空手道選手権大会に参加

しました。この時はポイントを意識せず自分のスタイルで闘うことを

決めていました。不器用なのでポイントを意識するとかえってリズム

がバラバラになると思ったのです。

おかげさまで、この大会では士道館杯全日本大会に続いて優勝する

ことが出来ました。決勝戦は前回負けた森猛先輩でした。

この決勝戦ではポイントの取り合いはせず徹底的に下段蹴りで集中的

に足を狙い(当時は下段蹴りの制限はありませんでした。今は1試合

3回以上の下段蹴りは禁止されています。)ダメージを与え動きが

止まったところで上段の前蹴りを入れポイントを奪い勝つことが

出来ました。​

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真樹日佐夫先生監修のカラテマガジン誌では表紙を飾ることが

出来ました。当時は格闘技がブームでこれ以外にも空手雑誌、

格闘技雑誌で5誌に大会記事が掲載されました。

職業空手家6

1988年4月2日(土)、東京・両国国技館において格闘技の祭典

が開催されました。

これはプロレス、キックボクシング、空手等の試合をリングの上で

一緒に行うものでエンターテインメント色の強い大会でした。

その中の空手の試合は「空手リアルチャンピオン決定トーナメント」

と銘打って各団体の入賞者だけを集めてチャンピオンを決めると

いう画期的なものでした。

空手トーナメント出場選手を集めた開会式

 

 

 

 

 

 

 

 

このトーナメント自分は準決勝まで進み、同じく反対のブロック

から勝ち上がってきたのが佐竹雅昭選手でした。

その準決勝で自分は士道館と佐藤塾のチャンピオン、佐竹選手

は正道会館のチャンピオンとして対戦しました。

本戦は互角の引き分けでしたが延長戦で勢いに差が出てきました。

佐竹選手の勢いに押されてしまい残念ながら延長戦で敗退しました。

佐竹雅昭選手は、その後K-1が発足されると日本人のエースとして

活躍したのは皆さんご存じのとおりです。

さて、この大会は日本テレビで放映され、普段ですと自分が空手の試合

に出ても、翌日会社に出勤してそのことを知っている人は誰もいません

でしたが、テレビ放映の翌日、会社に行くと「松井、テレビ見たよ!」

「テレビ見てたら松井が空手の試合に出ていてびっくりしたよ。」

といろいろな人に言われ逆にこっちがびっくりしてしまいました。

その1か月後、代々木第2体育館で第3回POINT&K.O.全日本空手道

選手権大会が開催されました。

職業空手家7

1988年5月15日(日)第3回POINT&K.O.全日本空手道選手権大会

が代々木第2体育館で開催されました。

空手リアルチャンピオン決定トーナメントで3位に終わっていたこともあり

この大会ではなんとか優勝したいという思いで出場しました。

ただ、前回の大会の疲れが抜けきらず、ここ1ヶ月間は大した稽古はして

いなかったので正直自信はありませんでした。

いざ試合が始まってみるといままでの貯金があるからか試合を勝ち進む

うちにペースをつかみ決勝までたどり着くことが出来ました。

決勝戦の相手は角田信朗選手(現・正道会館師範)で1か月前に負けた

佐竹選手(当時・正道会館)と同じ流派であり大変緊張しました。

当時は今とは違い自流派の看板は自流派で守るという風潮がものすごく

強く佐藤塾の大会で松井が他流派に敗けるということは松井が敗けるのでは

なく佐藤塾が敗けたことを意味し大げさに言えば佐藤塾の存続に関わる大変

なことでした。

自分としては手や足の1本位折れても構わないくらいの気迫で決勝の舞台に

臨み、その気持ちの差が出たのだと思うのですが何回か延長を闘い優勝する

ことが出来ました。

記録としてはPOINT&K.O.全日本空手道選手権大会2連覇となりましたが

勝った瞬間は勝ったという喜びはほとんどなく佐藤塾の牙城を守れてよかった

という安堵感だけが残った大会となりました。

※あくまで昭和の時代の空手の大会の風景であり今とは様相がだいぶ違うと思います。

 「ああ、こんな時代もあったんだな。」位で読んでいただけたらありがたいです。

 

 

 

 

 

正道会館、角田信朗選手との決勝戦

 

 

 

 

 

優勝してトロフィーを受け取る松井宣治

職業空手家8

第3回POINT&K.O.全日本空手道選手権大会が終わった

1ヶ月後、6月19日(日)佐藤塾本部道場で昇段審査会が

行われ参段に昇段することが出来ました。

前列右、参段に昇段した松井、その隣は同じく参段に昇段した

立崎辰雄先輩。後列右、原田裕次師範代、隣が佐藤勝昭師範。

 

さて、今まで空手を頑張ること大会に出ることが目標で、その先

のことは全く考えていませんでしたが、そんな自分も28歳になって

いました。

仕事はしていましたが稽古があるためほとんど定時にあがっており

会社の付き合いもあまりしていませんでした。年齢的にもそろそろ

そういうわけにもいかなくなってきています。

空手をもっと頑張り続けたいという気持ちも強く、参段を頂いた後

佐藤塾の職員として雇っいただくことは出来ないかという相談もしま

したが、なかなかうまくいきませんでした。

アマチュアの空手道場であり当時職員をされていた原田裕次師範代

以外はみんな仕事をしながら稽古に通っていました。

それでも稽古は欠かさず翌年の第4回POINT&K.O.全日本空手道

選手権大会に出場しました。この大会では3連覇がかかっていました

が残念ながら決勝戦で敗退してしまい準優勝に終わりました。

準優勝に終わった第4回POINT&K.O.全日本空手道選手権大会

右から2人目松井宣治、右端が優勝した柳澤聡行選手。

栁澤選手は昨年の空手リアルチャンピオン決定トーナメントの

優勝者でした。

職業空手家9

さて、20代の頃、自分は佐藤塾に空手の稽古に通いつつJR中野駅

そばの中野サンプラザの地下にあるトレーニング場にウエイトトレーニング

をやりに通っていました。

そこに来ていたシュートボクシングをやっているT君と知り合い仲良くなりました。

第4回POINT&K.O.全日本空手道選手権大会開催の3~4ヶ月前位から、その

T君が自分に空手を教えてくれと言ってきました。

自分は大会に向けての練習があるし、そもそも人に教える気もなかったので断り

続けていましたが、第4回POINT&K.Oの大会が終わってからも会うごとに教えて

ほしいと言ってきていました。

「そこまで言うなら基本稽古位は教えようか。」とウエイトトレーニングが終わった後20~30分

位一緒に基本稽古をやるようになりました。もちろん空手着を着たり月謝を取ったりなんて

ことはしていません。

そのうちT君が「この人も教えてほしいと言っているのだけど。」と新たに人を連れてきました。

自分も「1対1より張り合いがでるよね。」と言い一緒に教え始めました。

その後、それを見ていた人たちが「自分も仲間に入れてもらえないか。」と言い稽古に参加しはじめ

ひとり、ふたりと人数が増えてきました。

教えると言っても先にも書いたように本格的にやっていたわけではなく自分のウエイトトレーニングが

終わった後に20~30分基本稽古を一緒にやっていたくらいでしたが・・・

あと、そのころ中野サンプラザは改修工事に入っており、稽古は中野区立体育館のトレーニング場

の裏のスペースで行っていました。

職業空手家10

佐藤塾に所属しながらウエイトトレーニングの後に

体育館で空手を教えることは半年ほど続きました。

そのころ自分は先のことを真剣に考えはじめていました。

佐藤塾の職員になれたらと思ったこともありましたが、

断念し、結局大会への出場はそろそろ辞めて仕事

に本腰を入れなければと考えていたころでした。

今までも仕事はきちんとしていましたが残業や行事への

参加は極力しないようにしており中途半端でした。

ただ15年もやってこのまま辞めるのももったいないし

すっきりしないなあ、どうしたものかなあと気持ちは揺れ

動いていました。

そんなころ自分に空手を教えてくれという人が現れ

徐々に人も増えてきました。(といっても10人もいま

せんでしたが)

その年の秋、第9回士道館全日本大会が開催され自分と

自分が教えていた人が参加したのですが自分は佐藤塾と

して、その人はフリーとして参加しました。

その時に「一緒に稽古しているのに自分は佐藤塾で教えている

人間は道場名なしではかわいそうだなあ、出るなら一緒の道場名で

出たいなあ。」と思ったことがひとつのきっかけとなりました。

後は、自分に空手を教えてくれという人がいることが単純に嬉しかった

事もあります。

佐藤師範の許しを得て勇志会空手道としてやっていくことになりました。

1990年の1月、自分は30歳になっていました。

職業空手家11

今の自分の立場になって思うのですが自主トレの延長上とは

言え、佐藤塾に所属しながら個人的に空手を教えるならば

佐藤師範に対し報告、相談は必要だったのではと思います。

辞める時にしても、もう少しコミュニケーションがあってもよかった

のではないかと反省しています。

ただ当時は本当に深くは考えていず、独立とか、そういう感覚でも

なく、始めた当初は集まったみんなでいろいろな大会にチャレンジ

していきたい「道場」というよりは「チーム勇志会」という感じの方が

近かったのかなと今振り返って感じています。

道場名を決める時「勇志会」という名前は、本や辞書で調べた

訳ではなく、いくつかの候補から選んだのでもなく、すぐに「勇気」

と「志」で[勇志会」にしようと自然と頭の中にすぐ思い浮かびました。

これは今思うと不思議でしたね。

道場は女房が電話帳で練馬区上石神井にある「武林接骨院柔道場」

を探してくれ、交渉の結果、毎週火・土曜日間借りすることができ、

1990年1月より「勇志会空手道松井道場」としてスタートすることが

出来ました。

最初は1回の稽古で集まるのは2~3人で、これが1列5人で2列に

なるのが夢だねとみんなで話していた記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

1992年頃の稽古風景。少しづつ稽古生が増えていました。

職業空手家12

当時の1日の日常は、朝起きて走り込みを行いそれから

仕事に行き、仕事から帰ってからは火・土曜日は上石神井

で空手の指導、自分の稽古。それ以外は中野サンプラザで

ウエイトトレーニングを行っていました。

そして、独立してから新しく大会にチャレンジすることにしました。

選んだのは極真会館主催全日本ウエイト制大会でした。勇志会

空手道の名前の由来である「勇気」と「志」を自分で実践しようと

思ったのでした。

極真会館の大会は18歳の時に第10回全日本空手道選手権大会

に出場して以来、実に13年半ぶりの出場となりました。

出場してみて驚いたのが13年半前とは違い選手の鍛え抜かれた肉体

でした。300名以上の選手がいるのですがほとんどの選手がボディー

ビルダー顔負けの筋肉と引き締まったボディーを持っていました。

極真会館以外の大会にも鍛え抜かれた身体を持った本当に強い選手は

いるのですが、普通か普通より少しいい身体位の選手も数多くいました。

その選手層の厚さは他の大会を圧倒していました。

さて、極真会館主催全日本ウエイト制大会ですが1991年6月開催の

第8回大会と1992年6月開催の第9回大会に出場しましたが残念ながら両方

とも1回戦で敗退しました。

特に第9回大会の1回戦で対戦した数見肇選手は後の全日本大会で何度も

優勝した極真会館不動のエースとなった選手で本戦は引き分けたものの

延長戦で敗退しました。結局この試合が松井宣治現役最後の試合となって

しまいました。32歳でした。

 

 

職業空手家13

1993年1月練馬区練馬1丁目に総本部道場を開設しました。

極真会館第9回全日本ウエイト制空手道選手権大会に出場してから

半年が経っていました。

これは今うちに来て強くなりたいと思っている道場生が毎日稽古が出来て

ウエイトトレーニング、サンドバックトレーニングが出来る環境を作りたいと

いう思いで大会出場後から探し始めたものでした。

何件か候補を回った後、西武池袋線練馬駅から徒歩1分の、通りから細い

路地を曲がったところにある3階建ての小さなビルを見つけました。

最初見た時から「ああ、ここがいい!」とすぐに気に入ってしまい、

さっそく1階と2階を借りる契約を結びました。

1階を道場に2階をウエイトトレーニング、

サンドバックトレーニングが出来る設備を置けば理想的な道場になるのでは

ないかと思ったのです。

準備期間に3ヶ月ほどかけ、1階の道場に敷く畳、ミット類をしまう棚を買い2階のトレーニング場で使うバーベル、ダンベル、ベンチ、パワーラック、

腹筋台、ウエイトの器具はどうせやるなら本格的なものをと値段の高い業務用のものを揃えました。

そして、サンドバックを吊るす鉄骨、サンドバック2基、道場の看板等揃えるものは山ほどありました。

今まで稽古だけやってきた自分に経営のノウハウや戦略などあるはずもなく、ただ道場生が強くなる環境をつくろうと、これはいいと思ったものをどんどんと買ってしまい気がつけば何百万円という想定外のお金があっという間に飛んでいってしまいました。

そして翌年1月から総本部道場と今まで稽古していた上石神井道場と2か所で道場の運営を行ったのですが、最初は毎月15万円程の赤字を出してしまいました。

道場の設立でお金は使い果たし、もうすっからかんです。そのうえ毎月15万円程のお金が飛んでいくのです。せっかく総本部道場として開設したのに、このままいけば

数か月で道場閉鎖です。この時生まれてはじめてお金のことで胃に穴の開く思いをしました。

当たり前のことですが常設道場をつくるのにも運営維持するのにも莫大なお金がかかるわけで、今ならばそれなりの生徒数を集めてから借りるとか、最初は道場の1階のみを借りて2階は道場生が増えて、それなりの目途がたってから借りるとかすればよかったのかなとも思うのですが、その時は理想の常設道場を造ることのみに夢中で、その後のことはなにも考えていなかったのです。

さて、道場を開設した2月の半ば位に当時人気の高かった「格闘技通信」という雑誌が取材に来てくれました。松井宣治が総本部道場を開設したことを記事にしてくれたのです。

その記事が3月号に掲載されると道場生が急激に増えはじめ、結局赤字は4~5か月で解消されて一息つくことが出来ました。

「格闘技通信」が取材に来てくれたこと。空手道場は春の4月から6月にかけての入会者が一番多いのですが、その1ヶ月前の3月に記事の掲載された雑誌が発売されたこと。

物凄く運が味方してくれました。これがなければ道場は閉鎖されてしまったのかどうなっていたのかわかりません。

勇志会空手道総本部道場開設の記事が格闘技通信に掲載されました

職業空手家14

さて勇志会空手道総本部ですが最初の数か月こそ大変な思い

をしたものの道場生は順調に増えていき、きちんと運営できる

ようになっていました。

その頃の生活は朝7時に起きて会社に行き仕事が終わったら

すぐに道場に行き道場を開けてから稽古指導、10時半か11時

ころに道場を閉めて遅い夕食、その後道場の事務仕事をかたず

けて寝るのはいつも1時半か2時くらいでした。

朝走ることは疲れて出来ず、自分の稽古は道場にある器具を使った

ウエイトトレーニングくらいで道場稽古は基本稽古は一緒にやります

がその後は指導に専念して自分の稽古にはなりませんでした。

毎日稽古が出来てウエイトトレーニング、サンドバックトレーニングが出来る

環境をつくりながら、皮肉にも自分は道場の維持運営で頭がいっぱいになって

しまい自分の稽古にまったく身がはいらなくなってしまったのもありました。

そんなこんなで2年目に入ったころ会社で営業に移動の辞令が出てしまいました。

営業に移ると今までみたいに定時に上がるのは無理どころか帰りの時間も

読めなくなってしまいます。

いよいよ空手をとるか仕事をとるか決断しなければならなくなってしまいました。

もともと空手で得た収入は家賃やその他空手の経費に使い、家族の生活は会社

の給料で賄う考えだったので非常に迷いました。

勇志会空手道の道場生は増えていましたしフルコンタクトカラテは

盛んでしたが、当時のフルコンタクトカラテはイコール極真空手であり、

その他の団体が、ましてや

うちみたいな小さな団体が常設道場を運営するだけでも大変なのに、

そのうえ空手だけで生活をしていくことがいかに困難か火を見るより

明らかでした。

常設道場をつくったのは道場生が強くなるための環境づくりのためであり、

それで生活しようという発想はもともとありませんでした。

昔、佐藤塾で職員になれたらと

考えたこともありましたが、それは自分自身の稽古をもっと充実させて、

もっと強く

なりたいとの思いからで現役を引退した後こんな形で専業にしようとは

思ってもいませんでした。

けれども決断しなくてはなりません。道場生は増えており逆に無責任に「もう道場は

やめます。」とは言えません。結局会社は辞め、空手1本で生活することに決めました。

会社の社長には大変可愛がってもらっておりお世話になっていたので退社の

挨拶の時に正直に事情を話させて頂きました。その時の社長の言葉は今でもはっきり覚えています。

「君が空手をやっているのは知っていましたが草野球をやるのと同じような感覚でやっていると思っていました。そこまで空手にエネルギーを注いでいるのであれば空手を専業にするべきです。しかし、君がこれから歩もうとしている道は修羅の道ですよ。」

社長は何もないところから会社を興し一代で苦労しながら社員100名を抱えるまでに大きくされた方なので、自分ひとりで会社なり団体なりを引っ張っていくということがどういうことなのかいろいろ

見えていたのだと思います。その時はピンときませんでしたが後々その言葉の意味を深く知ることとなります。

こうして1995年1月より35歳で空手を職業として空手1本で生活をしていくことになりました。勇志会

空手道を興して5年が経っていました。

職業空手家15

自分が総本部道場を構えた当時は入会者のほとんどが一般部で、大会に

出て頑張りたいという生徒も大勢いました。

そのうちの何人かを他の団体の大会に出場させたのですが、その団体には

その団体の方針があり組み合わせやルール等なかなかきびしいものがあり

今思えば選手達の力不足もあると思うのですが、納得のいく結果を得ることは

できません。

専業になり時間が出来たのもあり、勇志会空手道の選手が思いっきり力を発揮

する場をつくりたいとの思いから勇志会の全日本大会を開催しようと思うようになり、まずは会場を探そうと最初、東京で探したのですがどこも貸してもらえるところが見つからず神奈川に目を移したところ

川崎市とどろきアリーナ・メインアリーナが

使用できそうだということで、ここで大会を開こうと考えるに至りました。

まだ、出来たばかりの会場で借りる団体が少ないことが幸いでした。

最初、会場を見た時はあまりの広さにこんなところでうちなんかが大会を

開けるのだろうかとビビッてしまいましたが

「うちの道場の名前は勇気と志なんだ。その名前に恥じないように行動しないとだめではないか。」と自分を鼓舞して、

とにかくやってみようと大会を開催することを決断しました。

集まった選手は51名。この人数で会場費を支払い舞台をつくり

パンフレット代、トロフィー代、弁当代、当時はお店を借り切って

打ち上げも行っていたので、その代金も支払わなければなりませんでした。

当然大会は大赤字で100万円前後の不足分が出るのですが、それは全部

自分が支払いました。今、大会を開催している方はこんなことは絶対やらない

と思います。

佐藤塾の佐藤師範はじめ大会を開催されている方は当たり前のように毎年

大会を開催しているように見えますが全然当たり前ではないし本当に大変な

思いをして毎年開催されているのだなと痛感させられた次第です。

それでも選手達が経験を積み目標となる目指せる大会になるならば、それは

それでいいのかなとも思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1回勇志会オープン全日本空手道選手権大会が開催されました。

1996年10月6日(日)でした。

職業空手家16

勇志会オープン全日本空手道選手権大会は、その後日本国際空手協会

へと引き継がれ、「流派、団体、勢力にかかわらず一番汗を流して一番

勝ちたいと願っている選手が勝ってください。」この言葉をコンセプトに

日本国際空手協会全日本空手道選手権大会と名称を変え、よりレペル

アップしたより大きな大会へと変貌を遂げていきました。

一昨年より一般とジュニアを統合して、一般部はもとより年少者から、シニア

までの老若男女、多くの空手修行者が最高の目標となる大会として、さらに

変革して現在に至っています。

今、これを書いていて思うことは、まだ生徒数もそれほどの資金力もないにも

かかわらず常設道場を開き、小さな団体で全日本大会を開く組織力がない

うちから全日本大会を開催してきたのだなということです。

道場や大会をつくってから、その規模にみあう生徒を増やし、組織力をつけよう

と考えていたのですが、これは相当な無理を重ねることとなります。無理を続ければ

当然、ひずみが生じてきます。これはいまになってわかることです。

例えば、道場生の為と思い全日本大会を開催したのですが、実際にやってみると

勇志会空手道の生徒が出場しないことには大会の維持、運営が出来ません。

自分としても強引に大会に出ろと強要したこともあると思います。そうすると道場生

の目標となるはずの大会が、そうではなく勇志会のため、ひいては松井の為に大会

に出場しているのではないかと思う生徒が一部にいても不思議ではありません。

実際そういう話も間接的に聞いています。、そのようなジレンマ、失敗は山ほどありました。

当たり前ですが道場や大会の運営にかかわる決断は自分が下しており最終的には全ての

責任は全て自分が負うことになります。無理をしたツケは自分に回ってきます。

それでは組織がそれなりに大きくなってから無理なく道場設立なり大会開催なりをやれば

いいのではないかとも思うのですが、それではいまだに常設道場すらできていない可能性

が高いです。どうすればよかったのか、なにが正解なのかはいまだにわかりません。

それでも、こうして今でも道場も大会も維持、運営できているということは道場生はじめ多く

のかかわってくれた関係者の方々のおかげであり、これは

 

本当にそう実感しており感謝して

もしきれません。当然自分ひとりではなにもできません。そして、運もすごく味方してくれました。

職業空手家17

今はなくなりましたが株式会社福昌堂から「フルコンタクトKARATE」という雑誌

が毎月発行されて書店に並んでおり、そこで「魂の系譜・王者列伝」という連載を

持たせていただくこととなりました。

これは空手だけではなくキックボクシング、テコンドーのチャンピオン、はては

プロボクシングの世界チャンピオンにまでご登場いただき松井宣治とさまざまな

事柄について対談していただくというもので、普通ではとても話しができないような選手、

師範の方々と試合にむけたトレーニング方法はもちろん、空手、格闘技に関する考え方、

自分自身の信念、信条にいたるまでいろいろなことをお伺いすることが出来て、読者に

読んでいただくということ以上に自分自身の糧となりました。

勇志会空手道のこれからの方向性、自分自身の稽古への取り組み方等、いろいろ模索

して悩んでいたときでもあり、いろいろな選手の方々、各団体の代表の方々とお会いする

のを毎回非常に楽しみにしており、そのお話は勉強になり自分自身や勇志会空手道の

これからを考えるにあたり大いに参考になりました。

記念すべき第1回目は2008年10月号で初代極真会館世界チャンピオンであり、松井宣治

の空手道の師匠として大変お世話になっている佐藤塾、佐藤勝昭師範にご登場頂きました。

佐藤塾で稽古していたときは佐藤師範に対して「押忍」という返事以外したことがなく(昭和

の時代の空手道場はどこもそんな感じだったと思います)、こういう対談という形をかりて

佐藤師範といろいろな話をさせていただいたことは、今でも素晴らしい思い出として心に刻み

込まれています。

佐藤師範の現役時代の稽古への取り組み方を聞かせていただき、自分も現役の時は相当

頑張ったつもりでしたが、当たり前ですが佐藤師範と比べたらぜんぜん甘く足元にも及ばない

なと改めて痛感しました。

この連載は2015年5月号まで続き、長期にわたる連載となり多くの空手愛好者に読んでいた

だきました。

「魂の系譜 王者列伝」の第1回目として佐藤塾宗師、佐藤勝昭師範にご登場いただきました

職業空手家18

自分が現役のころはもちろん、勇志会空手道を発足した時も入会者は

高校生、大学生、20代前半の若者が中心でした。

それがだんだんと年少者が入会の大半を占めるようになり年配者や女性

も増えてきました。

入会する目的も今の自分以上に強くなりたいという気持ちは今も昔も変わらない

と思うのですが、低学年の子供でしたら人前で大きな声で挨拶が出来るとか

少しくらいのことで泣かないようにとか、一般の部でも30代以上が増えてきて

精神的な強さを身につけて仕事に生かしたい、運動不足の解消と多少の護身

に役立てたいなど目的も多様化してきました。

自分自身も前にも書きましたが道場に対する考え方はあくまでイメージですが

最初は「チーム勇志会」であり「勇志会カラテ」でした。それが段々と

「勇志会空手道」にと変化してきました。

「勇志会空手道」の名前の意味は肉体的な強さや空手の技術を表すのではなく、空手道の稽古を通して自分の心の中にある「勇気」や「志」を大きく

育んでいくという思いが込められています。

勇志会空手道を開設した当初は本当になにも考えてなくみんなで大会に出て

頑張ろう、いい成績を残そうということがメインの「勇志会」だったのですが、

道場生含めいろいろな方と接していろいろな経験を重ねるうちに自分が職業と

して、どう「空手道」に取り組めばいいのかをだんだんと模索し考えるようになって

いきました。

6年半前に前の総本部から今の総本部に引っ越して、その時にどういう看板を

付けようか考えたのですが、自然と「勇志会総本部」ですとか「日本国際空手

協会 勇志会」など組織を表すものではなくてシンプルに「勇志会空手道」と

いう看板を付けていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

道場には子供たちが多く集まるようになってきました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

総本部にはシンプルに「勇志会空手道」の看板をとりつけました

職業空手家19

自分が15歳から空手を始めて早いもので45年が経ちました。空手が職業と

なってからでも25年の歳月が流れました。最初、高校のクラブ活動の延長の

ような気持ちで空手に取り組んでおり、まさか空手道が生涯の職業になるとは

当時は夢にも思いませんでした。

その間、当たり前ですが本当にいろいろなことがありました。最初は稽古の辛さ、組手

の怖さがあり、そして大会に出場するようになってからはさまざまなプレッシャーとの闘い

がありました。空手を職業にする決心をして、勤めていた会社を辞める時お世話に

なっていた社長に挨拶をしにいったとき「君がこれから歩む道は修羅の道ですよ。」

と言われたのですが、修羅の道かどうかはともかく自分の未熟さゆえか失敗や困難に

ぶち当たったり裏切られたりしたことも多々あり、正直逃げたいと思う時もありました。

けれども周りを見渡してみれば、もっと多くの苦難を乗り越えてこられた空手の先生は

大勢いますし、また事業をやられている方でも自分の経験したことを、はるかに上回る修羅場

を当たり前のように乗り越えて大きくなられている方も大勢います。それを思えば自分など

まだまだ全然甘いですし、空手を職業としてやっていく以上いろいろあって当たり前だと言えます。

そもそも、自分は最初なにもないところからスタートしています。それが今では自分の道場が

あり、家族をはじめ支部長、指導員など道場を支えてくれる人達がいて日々稽古に通うのを

楽しみにしている道場生がいます。最初のころを思えば、今の状態は自分が予想した以上で

あり、もう感謝以外ありません。

それに運もありました。人々の支えがあり運に導かれてここまで来れたということは神様が

空手道という職業を自分に与えて下さったのだと今は思っています。

勇志会空手道を支えてくれている支部長、指導員、道場生達

 (2019勇志会空手道秋季上級者研修会にて)

職業空手家20

追 記

昨年、12月28日(土)を持って上石神井道場の武林接骨院柔道場での

稽古を終了しました。建物の老朽化に伴い出ていくことになったのです。

今年からは近くにある上石神井体育館で稽古しています。

1990年1月から勇志会空手道として活動を開始しましたがその時に貸して

頂いたのが武林接骨院柔道場でした。

総本部が出来てからも本部直轄上石神井道場として勇志会空手道が発足

してから30年間ずっとこの場所で稽古をしてきました。

最初、自分が60歳の誕生日を迎えた時は「松井宣治60歳になりました。」

というタイトルで誕生日の報告だけするつもりでした。

けれどもいざ書こうとすると今までのいろいろなことを思い出してきて、また

武林接骨院柔道場での30年間の稽古を終えることで勇志会空手道のひとつ

の歴史が終わったのだなという感傷もあり結局「職業空手家」というタイトルで

こんなに長いブログとなってしまいました。このブログは半分、自分が自分に

向けて書いているようなところもあります。

最後に自分の今後の目標ですが、それは空手道修行歴半世紀、50年を迎えることです。

それと同時に職業空手家30年を全うしたいです。

自分より実績もあり実力もある空手家は何人もいます。最近は大会も多くなり若く才能溢れる

チャンピオンが毎年何人も誕生しています。

けれどもこれは空手に限りませんがひとつのことを半世紀にわたり継続して行っている人は

なかなかいませんし、なかなか出来ることではありません。まして自分は空手を職業にしてから

25年間、空手だけをやってきました。その集大成としてその少ないなかのひとりに入りたいのです。

1年継続して見える世界、3年継続して見える世界、10年継続して見える世界、30年継続

して見える世界は全然違います。50年継続したらどんな世界が見えるのだろう?非常に楽しみです。

これが達成できたならば、それは自分にとって過去に頂いたどんなトロフィーよりも価値のあるもの

となります。

 

「職業空手家」のブログはこれで終わりたいと思います。

読んでいただいた方はこんな自己満足の自分語りに長い時間お付き合いいただき本当にありがとございました。

1_1.jpg
1_2.jpg
1_3.jpg
2_1.jpg
3_1.jpg
3_2.jpg
3_3.jpg
4_1.jpg
5_1.jpg
5_2.jpg
6_1.jpg
6_2.jpg
6_3.jpg
7_1.jpg
7_2.jpg
7_3.jpg
8_1.jpg
8_2.jpg
11_1.jpg
11_2.jpg
13_1.jpg
15_1.jpg
15_2.jpg
15_3.jpg
17_1.jpg
18_1.jpg
18_2.jpg
19_1.jpg
bottom of page